「悪い、すぐどく」
短い沈黙のあと、ダイチは不自然な早口で言った。
「座布団に躓くなんてな」
「……うん」
陽に焼けた彼の下、ひとまとまりの髪が散る。ポニーテールが痛いので、首を少し斜めにした。
立ち上がろうとして、ナカマの手がダイチの腕に触れた。
「あ」
「ごめんなさ……」
汗ばんでいる。指先が濡れたけれど嫌ではない。なぜか、真っ赤になった。
目が合う。逸らす。視界に飛び込んできた太い指に、またいたたまれなくて目をつぶる。
どくと言ったのに、ダイチはまだどかない。いつもは安心感をくれる温かい視線が、真上からだと落ち着かなくて恥ずかしい。
ナカマは思い出していた。ナベさんに「お客さん」を紹介してもらったときのこと。ああ、あのときみたいだ。あのときの緊張と今の緊張、その種類を比べるということは、やっぱり、「それ」を意識しているということなのだろう。
「…………ダイチ君」
返事はなかった。それで、ナカマは気づいた。
ダイチも、変わらないはずなんてないのだ。
「……蝉、うるさいね」
『あれ』に乗って、生き延びて、日常を、普通に流れる日常を過ごして、なのに何も変わらないなんてこと、あるわけないのだ。
うちに来ないか、と誘ったのはナカマの方だった。
ただしこの場合の「誘う」は他意のないものだ。
「子供用の服、作ったの。学校の課題で……ヨシちゃんにどうかなと思って」
作った服を矢村家にあげることは初めてではない。服飾系の大学に進んでからは、ダイチの妹たちに着せたい服を、すすんで作るくらいになっていた。
「それは嬉しい。が、いつもいつも悪いな」
「そんなことない。着てくれた方が、服も喜ぶもの」
問題は、ダイチが生地代を払うと言って聞かないことだ。もちろんナカマは固辞する。ちょっとした口げんかのようになる。大抵はダイチが金銭以外のお礼をナカマに支払うことで解決するのだが、これが結構な手間だった。
もちろん、ナカマにはそんな会話ひとつひとつ、幸せに思えるのだけれど。
「あのね」
この日、ナカマは先手を打った。
「ダイチ君の手料理、食べたいな。この前、フタバちゃんが言ってたの。ダイチ兄ちゃんの料理は、私のよりずっとおいしいって。フタバちゃんより上手だったら、きっとすごくおいしいよね」
最後の方はうつむいてしまったけれど、上手に言えたほうだと思う。
自分からお願いごとをするのは、得意じゃない。『得意じゃない』ことを、この人相手にならできるのだ。
「いや」
「え」
「自分は肉じゃがしか作れないぞ。むしろナカマの手料理の方が食べたい」
言って、ダイチはちょっとだけ恥ずかしそうに笑った。大きくは無い黒目が、笑うとさらに小さくなる。
この笑顔が大好きだ。
温厚で、優しくて、それこそ(絶対に言えないけれど)大地みたいに懐深い。彼の笑顔を見た母は、嬉しそうに言ってくれた。『マコちゃんは、幸せになるね』。
「じゃ……じゃあ、一緒に」
「作るか。そういえば、二人でっていうのは初めてだな」
もちろん、ナカマはすぐさまそれを否定した。『私は、お母さんの子供に生まれた瞬間からずっと幸せ』。
「ありがとう」
「いや、こちらこそ。……なんでお礼を言い合うんだ」
「え…… おかしいかな」
「……いや」
よく思う。
ジアースのパイロットに選ばれたときも、ダイチは家族の前でこんな風に笑っていたのだろう、と。
ジアースが来なければ、私の右手は振り上げた格好のままだっただろうか、と。
どちらの町に行くか話し合って、結局ナカマの家になった。家に呼ぶのは三回目だ。母に紹介してから、彼女は良くダイチに会いたがったけれど、二人の生活サイクルはなかなか重ならない。今日も母は留守だ。とても残念がっていた。
待ち合わせの駅には二十分前に着いた。五分後にダイチが来た。
「すまん」
「遅れてないよ。さっき来たところだし。急がせたのなら、ごめんなさい」
言いながら、思わず頬が緩んでしまった。思い出したのだ。五回目のデートのときに交わした奇妙な約束。
『待ち合わせ時間の十五分より前に来ないこと』。お互いがお互いを待たせまいとしてどんどん時間が早くなった結果、その日はなんと三十分前に同時到着。ゆゆしき事態だということで、大真面目にそんな約束をした。
だから謝らなければならないのはこちらの方だ。約束を破ってしまったのだから。待たせたくなくて。ダイチがこっちに来なければならないときには、待たせて一人で考え込ませてしまう時間をあげたくない。
昇り電車の窓からは遊園地が見える。
彼が守った、遊園地が。
「なんだか、あれだな」
「え?」
スーパーに寄った帰り道、ダイチがぼそりと呟いた。
「あれって?」
「……いや」
いいあぐねているらしい。小麦色の肌が微妙に赤っぽい気がする。買い物袋にふさがれていない左手で頭を掻く。
「…………」
さらに問い詰めるかどうしようか、ナカマは悩んだ。
なんとなく、分かってしまったのだ。きっとダイチは、今同じことを考えている。
「ダイチ君」
尋ねない代わりに、ナカマは右手の袋を反対側に移した。
「夫婦みたいだね」
あの時は、こんな時間が訪れるなんて信じられなかったよね。
「……ナカマは変わったな」
「よくそんな恥ずかしいこと言えるなって? ダイチ君は、あまり変わらない」
「喜んでいいのかな、それ」
「私は嬉しいかな」
「なら、喜んでおこう」
――ジアースが会いに来て、動けなかった右手は振り下ろされた。
殴った同じ手は今、違う左手と繋がっている。
「蝉、うるさいね。一生懸命、鳴いてるんだ」
「一週間だもんな」
蝉の気持ちは良く分かる。でも蝉にはこちらの気持ちは分からないだろう。
生き永らえた、という、人間の幸せは。
そんな会話をしたのが三時間前だ。
外は暗いけれど、まだ蝉は鳴いていた。どこか侘しい、けれど未だ大きな声を聞きながら、ナカマはダイチの下から動けない。
つまづいただけ。
ご飯を食べ終わって、後片付けをして、いろいろな話をしたり、映画を見たりしながら過ごした。
のんびりした幸せな時間のどこかの地点で、ダイチがつまづいただけ。ござの上、ナカマがたまたま、下敷きにされただけ。
「悪い、すぐどく。座布団に躓くなんてな」
少しだけ息を吐いてから、ナカマはできるだけ綺麗に微笑んだ。もしかしたらおかしな具合に引きつっているのかもしれなかったけれど、頬を上に動かしたら、自然な笑顔になれた。と、思う。
「ダイチ君。私、ダイチ君のこと、好きだよ」
ポニーテール、ほどいてしまおうか。
真上を見たい。正面から見たい。
「ナカマ、あのな、この状態でそんなことを言うな」
「どうして?」
「…………」
ダイチが年相応に見えるのは、彼が困ったときだとナカマは知っている。薄い唇を線にして、ダイチは憮然とした風に上体を動かした。
「だめ」
思わず、そう言った。すぐにとても後悔したけれど、止まらなかった。
「どかないで。お願い。どかないで」
「ナカマ……」
「わ、私……」
勇気が欲しい。この気持ちを伝えたいんだ。
「私、私、本当にダイチ君が……」
ああ。ああ、お母さん。お母さん。私、これのうまい誘い方は習ってないよ。
――男を家に上げるときは、絶対にコンドームの用意を忘れないこと。
言いつけ、遵守してます。
聞いたときは開いた口が塞がらなかったけど、アンコに貰っておいた。
――うん、それ、お母さんの言う通りにしときなさいよ。だってね、私とカンジだって初めては……
ごめん。ごめんねアンコ。ダイチ君をカンジ君と一緒にしないでほしいとか思って、ごめんね。
「っわ、たし……!」
「ナカマ、もういい。分かったから――」
「私、ダイチ君に、だっ抱い……っ」
「…………」
「だい、…………だい好き」
意気地なしだ。
ごまかしてしまった。自分ではもうちょっと、お母さんみたいなかっこいい女のつもりだったのに。
変わらないな。変わらない。
「言わせて、悪い」
でももう、いいのだ。
「自分の方が、ナカマを抱きたい」
引き起こしてくれなくても、自分で立ち上がることが出来た。けれどナカマは何も言わず、軽々抱き寄せられるままにされた。
温かい。耳に、鼻に、皮膚に、大切な命の気配がする。息の音、蝉の声、体臭、
「なぜだろうな。いつも、わかる。ナカマの気持ちは」
……穏やかな声。
いつの間にか泣いていた。頬を伝った涙は室温と同じ、体温より高い。無地のシャツに出来た黒い染みを見て、目を閉じた。瞼に押し切られ、更に染みが広がる。
手を回す。回りきらなかった右手の平に力をこめて、広い背中を抱きしめる。
『普通の人』は、こんな瞬間を『死んでもいい』なんて例えるのだろうなと、思った頭の片隅、沁みいらせるくらいの速度で、ダイチが言った。
「不安なんだろう」
わかって、くれている。つらいほどに。
つかの間ためらったのは、『あなたが愛しい』を証明したかったからだ。言葉に出来ないことを悔しく思いながら、首を縦に振った。
「今でも思い出すんだろう」
頷く。何度も頷く。嗚咽混じりで呼吸が息苦しい。それでも顔を埋めたまま、離れたくない。
「大丈夫だ。もう大丈夫なんだ、ナカマ」
「お願い、」
束ねた髪を乱して、ナカマはさらに頭を押し付けた。
「誤解しないで。安心させて欲しいわけじゃ、ない。けれど、自分勝手で、ごめんなさい」
「いいよ。わかる。ナカマが好きだから」
手が伸びた。頭を大きな手のひらが往復するのを感じた。
いつものナカマだったら、もうこれだけで満足してしまったのかもしれない。
でも今は、思い出していた。ジアースに関わった日々のことを、そして、ジアースが地球を去った日のことを。
あの日。
コエムシは言った。
『死んだ』仲間全員を、あのコックピットに集めて。ゆっくり回る地球、私たちの青い地球を見下ろしながら。
――お前らに、ご褒美をやる。
――選べよ、ほら。
「ナカマ、」
夏の夜の濃密な空気。蝉の声が止んだ。湿度はそのまま、最後の日と同じだ。
ナカマは感じたかった。ただ感じたかった。
確かに生きていること、確かに愛し、愛されて存在していることを、強烈に実感したかった。
「うん。……一緒に、」
一緒に。
実感したかったのだ。
長い、ぎこちないキスのあと、ナカマはシャワーを提案した。少しでも不潔だと思われたくなくて、我慢できなかった。ダイチの汗の匂いは好きだけれど、自分のはどうかとなると。
「ダイチ君、先に……」
「いや、ナカマが先だ」
じゃあ一緒に。とはならないのがこの二人だ。
「……じゃん、けん、」
ぽん。
グーとチョキ。で、ナカマが勝った。
お風呂上り、何を着るか悩んだ。悩みすぎてどうしようもなくなり、結局いつも来ているチェックのパジャマにした。髪を拭きながら(待たせるのは、悪い)登場したナカマを見て、ダイチが一瞬凍りつく。
子供っぽくてびっくりされてしまったのだ。消えてしまいたい。
半泣きで、今度は一人、布団を敷いた。ござじゃ痛いと思う。分からないけれど、ござの上で寝るのは痛いから、痛いと思う。想像するのは、恥ずかしくてできない。
シーツを伸ばしているとき、なんだかすごくいやらしいことをしている気持ちになった。でもこれをしないと、まさかダイチに押入れを開けさせられるはずもない。私が、しないと。
「…………」
何枚敷けばいいだろう。
「………………」
枕は? タオルケットは?
パジャマの裾を握り締め、ナカマはじっとシーツを見つめる。真っ白いそれは清潔だ。真上からの光で、ナカマの影は薄く短い。
長めの逡巡。それが終わらない間に、もうひとつ影が現れた。
『そのうち、役に立つかもね』と、母が置いていった男物の黒いジャージ。バスタオルで頭を撫でながら、ダイチがナカマを見下ろしている。
「あの、こ、これは……えっと……」
それにしても、この気まずさは何だろう。準備のいい女だとか(実際いいのだけれど)思われていたらどうしよう。
「その……お……お布団、なかったら困ると思って……」
「ああ。ありがとうな」
は、と、顔を上げる。あんまり普通の返事が返ってきて驚いたのだ。
「どうした?」
「ううん……」
ほっとため息をついてから気がつく。ダイチはきっと、気を使ってくれたのだ。
煌々と明るい部屋の中、ナカマは照れくさそうに微笑んだ。
こんなに優しい人を前に、何も不安になることはない。
「ごめんなさい、私分からないことばかりで」
「自分もだ。……さっきから、色々とやばい」
少し意味を考えて、返事をするナカマ。
「お風呂、使い勝手悪かったかな。ちゃんと説明したらよかったね」
三回の瞬きをして、首を掻くダイチ。
「そういう意味じゃないんだが」
「じゃあどういう意味?」
笑う。大体の場合、ダイチは笑う。
一歩の距離、向かい合う。ナカマはなんとなく、シーツを引っ張る姿勢の崩れた足を正座に直した。もじもじと膝元を見つめていたが、ふと気がついて前傾姿勢になった。
ダイチの足首に手を伸ばす。指で布を摘む。
「ちょっと裾が短かったね。でも、これしか男物がなくて――」
オトコモノ、あたりで視界が翳ったので、語尾は随分控えめな音声になった。
「あのユニフォームも」
ダイチがしゃがんだ。服の裾からナカマの指を奪って、ぎゅっと握った。
「この手が作ったんだな」
感じ入った風な声音。不意を突かれて、どぎまぎする。
「ダイチ君のは、私じゃないよ」
「それでも、ナカマは偉い」
「そんなの。ダイチ君こそ、」
『尊敬してる』。
残念ながら、言葉にはならなかった。
「……あ……」
キスなんて、数えるほどしかしたことがない。
手を繋ぐのに一ヶ月かかった。キスまでは半年かかった。
『育む』という言葉がぴったりな、健全すぎるお付き合いだった。
……だから、ナカマもダイチも、そのとき初めて聞いたのだ。
他人の舌が自分の口の中で立てる音を。
瞼の残像すら消すつもりで、ナカマはぎゅっと目を瞑る。『生き物が居る』と思った次の瞬間、その生き物が上あごに触れた。
背筋がぞくぞくした。
震えたのがばれただろうか。絡めた指がまた強く締まり、ナカマはうっすら半目を開けた。潤み始めた視界は何を映しているのか判明でなく、ただ明るい。
「……ダ、……ん」
電気、電気点いてる。
「明るいのは嫌か」
ナカマの返事を待たず、ダイチはすばやく蛍光灯の紐に手を伸ばした。ぱちんという軽い音が続けざまに二度、あっけなく部屋は暗闇に満たされる。
よくあの訴えで通じるものだと、妙なところで感心し、手探りの感触にどきどきする。
『すごくえっちな』(とナカマは思った)音と感触が頭蓋を刺激した。どことなくぎこちない動きではあったけれど、いかにも彼らしい真摯な愛情表現はだんだん、ナカマを前後不覚にさせてゆく。
体温が上昇して、我慢できなくなる。内に篭る熱を爆発させたくなる。
「!」
わき腹に触れられても、ナカマはかろうじて声を我慢した。
子供っぽ過ぎるかなと落ち込んだパジャマの裾が、いつのまにか捲り上げられている。あまり日に焼かせない肌の上を、ためらいがちに手のひらが移動した。
「ボタン、あの、じ、自分でっ!」
「いい、すぐ済む」
本当に、すぐ済んだ。子供っぽすぎる(三回目だ)せいかボタンも、ボタンの穴も大きくて、無骨な指でもするするとはだける。暑い暑いと思っていたのに、体に接した一瞬の空気はとても冷たい。
「うわぁ…………!」
押し殺した悲鳴のような、泣き声のような、妙な声がのどから漏れた。反射的に手は胸元へ。
「ナカマ……?」
「ご、ごめんなさい、ただ、ちょ、ちょっと、だけ、恥ず……」
目が合った。いつもより少し、いや大分、熱っぽい目と。ナカマは手のひらで顔を覆った。
「あんまり、見ないで」
思わず、言う。
一息の間をおいてから、ダイチが応えた。
「……なんというか」
「え、ええ?」
「それは残念だ」
息のかかる距離なんて、反則じゃないか。
せめぎ合う羞恥心と、由来の分からない喜び、それから確実なのはキスの余韻、あとはたくさんの愛情。
「そ、そうなの……?」
混雑する頭を、一生懸命に駆使する。
もし自分がダイチだったら。いや、そんな立派じゃないけど、とにかくダイチだったら。
こんな反応を彼女にされたら、どう思うだろう? あんまり恥ずかしがって、相手が先に進もうとしなかったら?
……勘違い、しそうだ。
「いいんだぞ、無理しなくても。……やめるか?」
「やめないで!」
それは悲しい。とても悲しい。
「だめ。続けて。してほしい。ダイチ君に、してほしい」
必死に、それこそ睨み付けるくらいにダイチを見つめる。慣れ始めた暗闇で、ぶつかった先の目はやっぱり、周囲よりひとまわり温度が高い。
「ナカマってときどき、強いというか無鉄砲というか……」
「だ、だめかな」
「まさか。今の言葉は永久保存したいくらいだ」
ほっとする笑顔にひととき、心を和ませる。永久保存はやめてほしい、と冗談を返す前に、ダイチの顔からまた余裕が消えた。
「ナカマ、すまない」
言われて、掴まれたように動けなくなる。まるでドラムの気持ちだ。不謹慎だ。
「できるだけ配慮して優しくしたいとは思うが、その」
「うん」
「途中で止められないかもしれない」
「……うん」
でもその前にダイチ君も、と言いかけて、ナカマは言葉を途切れさせた。
『ダイチ君も脱いで』なんて、卑猥すぎるかもしれない。
「分かった」
だからなんで、分かるんだろう。
むき出しになった腹筋に思わず見とれ、すぐに目をそらし、今度はこちらのパジャマを引っ張られ脱がされ。
「ダイチ君、すごい筋肉」
ごまかすように指摘する。
「ナカマは何でそんなに色が白いんだ?」
返され、負けた。ますます真っ赤になった。
「白くないよ。コモとかの方が……」
「そうか」
会話を遮った一言に、ナカマは心臓を高鳴らせた。『早く』と同義の、あからさまな焦りの響きがそこには込められていて、つまり、ただダイチの一存でナカマの意志をねじ伏せるという、およそありえなかった事態が起こったのだ。
けれど決して怖くはない。相手がダイチなら、むしろ引っ張ってくれているという安心感がある。
ごく繊細な圧力が乳房にかかった。ふにゃりと形を変えたそれは、掴む指の色とのコントラストで確かに平静より白く見える。
母の予言は当たったのか外れたのか、胸はそこそこに成長した。チズには遠く及ばないまでも、色と形は絶賛された。アンコに。
「あ……っ、え、と」
「綺麗だ。柔らかい」
なんて実直な感想だろう。と、感心できたのも一瞬だった。
「わ!」
分厚い舌が乳房の中心を舐めた。くるりと回すような動きに、丸っこい乳首はくすぐったがる。
「舐め……ん……」
――カンジね、ココ舐めるとき、赤ちゃんみたいで可愛いんだー!
ごめん。本当にごめんねアンコ。気持ち悪いこと想像させないでとか思ってごめん。二人の赤ちゃんが丸のままカンジ君だったらどうしようとか思って、ごめん。
でも、うん……ダイチ君は、可愛くはない。『男の人』だから。すごく『男の人』だから。
というか、可愛いとか思う余裕なんて、ない。
「ダイチ君、どうしよう私、」
目線が『何だ』と問う。ナカマは火照った頬を押さえた。
「――気持ちいい、です……っんぅ」
くすぐったくて、むずむずして、ものたりなくて、下腹部が熱くなる。じわじわした快感は背中を伝わり、湿り気を帯びてそこに集う。
「あっ、あ……んっ、」
ほとんどされるがままで、これは抵抗とは呼べない。けれど無意識に手を伸ばした。頭に縋り付いた。
「ナカマ」
するりと、ズボンのゴムを伸ばして忍び込んだ手に気づく。思わず止めそうになった理由は二つだ。
恥ずかしかったから。それから、触られたら、大きな声をあげてしまいそうだったから。怖いのはダイチより、自分の反応かもしれない。
けれど、そうも言ってられなかった。抱いて欲しい。最後まで行くにはこのくらい、腿を掴まれるくらいで止まってなんて、していられない。
「痛かったか?」
太ももを握ったことを言っているのだろう。ナカマは首を横に振った。白い、少し桃色が見えてきた足の、一番太い部分を、ダイチの手は軽々篭絡する。
柔らかな肉に浅く沈んだ指の腹はもちろん手加減してくれていて、痛いはずがない。ただ、確信を持って目指している先の場所が問題なだけで。
ん、とナカマは声をくぐもらせた。腿を軽く握り、撫でながら、手のひらが奥に移動する。する、と、皮膚の鳴く音がしそうなくらい、肌に馴染む熱い温度。
食べても太らない体質なので、ナカマの体、特に足の肉付きは薄かった。痩せた体にのしかかること、少しでも力を込めることを、ダイチは躊躇している風がある。
平気なのにと思い、ふと以前彼に聞いたことを思い出す。
『冷静になって思うんだよな』
全てが終わってから、一年が経った頃。
『自分があと1秒早く走り出せば、ドラムの下敷きにされなかった人がいるって』
――自分は遊園地を守った、でも多分、守れなかったものの方が多いんだ。
それを否定する言葉を、慰めを、ナカマは必死で考えた。
考えて考えて、何も思いつかなかった。また、自分が嫌いになりそうだった。
「ダイチ君」
大事な人の痛みも和らげてあげられない。それで何かを救った人間だと、誇れるわけが無い。
「もっと、いいよ」
白い下着を、今度は自分で脱ぐ。ずりおろさせるためにいったん離れたダイチの手を、再び、やっぱり腿は恥ずかしいので、今度は膝小僧の上に導いた。
「思いやりなんて、もう貰いすぎたくらいだから。ダイチ君が優しいのは、十分私が知ってるから、私にくらい、もっと好きなことして、いいよ」
「ナカマ……」
「ちょっと恥ずかしいけど……」
自分から足を開くのはやっぱり無理だった。リード、なんて上級者みたいなこともできない。だから、きっちり閉じた足の力を少しだけ弱めて、それで精一杯だ。
「震えてるぞ」
「気のせいよ」
「嘘をつけ」
「私はダイチ君に嘘なんてつかない」
「だったら」
ぐ、と、さっきよりも強く、ダイチの指がナカマの膝に食い込む。
あれ、と、ナカマは思った。いつもより声が低い。
「これは慰め合いか?」
短い、そして不機嫌な言葉を耳にして、ナカマは一度、耳を疑った。
それから意味を理解し、何も言わず俯いた。
『言っておかないと後悔しそうで。自分を守りたいだけなのはわかってるんだけど』
あの時かけた電話。ダイチがナカマを理解し、許してくれた最初の自己満足。
『誤解しないで。安心させて欲しいわけじゃ、ない。けれど、自分勝手で、ごめんなさい』
……これも、そうなのか。
ただダイチの傷を少しでも負いたい、分けて欲しい。
これも自己満足なのか。
「ナカマ、ナカマ! おい!」
「私……」
「すまん、自分が言いたいのは」
ぼろ、と一粒零れ、あっという間に二粒、三粒零れ、筋になり流れ落ちる。
ジアースに乗ってから涙腺が弱くなったと、皆が言っていた。ナカマも、例に漏れず。胸の谷間を伝い、臍の上にも。
「私は、私は――」
私はどうして、泣いているんだろう?
「ナカマ」
「私は、」
泣くようなことなのか。自己満足は悪いこと?
「言ったのに。聞いて、くれたよね。ダイチ君が好きだって」
違う……と。思う。でも。
「慰め合いだけで、抱いてほしいなんて、言わない!」
でも、そこで終わっても、いけない。
私が満足して、それで終わりじゃない。誰か他の人を、納得させてあげられる、幸せにしてあげる、それくらいの変化を、私は望みたい。
思ったのだ。
十五人がジアースに乗った審判の日に。
コエムシは言った。
「お前らに、ご褒美をやる。全勝記念だ」
耳障りなあの声、偉そうな口調。でもそれに文句を入れるところまで、私たちの思考は追いつかなかった。
「生き返らせてやろうか?」
ああできるさ。あたりまえだろ。
だから最初にココペリが言っただろ? これはゲームだ。リセットボタンがあんだよ。
俺様のほっぺただ。……冗談だ。殺すぞてめー。
考えても見ろ。魂が抜けるのは『戦闘終了後』なんだぜ?
動かすのに魂使うなら、ふつー先に取るだろうが。わっかんねーかなー。おめーらほんとバカだな。駆動時間も、動かし方も違う。
前のパイロットの魂を使って動いてた、ってのもな、カコのときを思い出してみろ。ジアースが魂を奪うより先にチズに殺されてやがる。それでも問題なくジアースは稼動したぜ?
嘘っぱちだ。魂なんざ、書き換えの聞くセーブデータだ。
ま、てめーらには、いじれないゲームだけどな。
わかったか。ただのゲームだ。アミダでも決められる剪定をよ、こうやって遊んで暇つぶししてんだ。インドじ……おっと間違えた。アイツラは。
趣味が悪いなんざ、俺に言われても知らねーな。
……喜んでんじゃねえ。
無条件に再生なんて、あいつらがそんな気前いいわけねーだろ。
ゲームで傷ついた地球と、
お前らの命。
どちらか一方だけリセットしてやる。
うるせー! ごちゃごちゃ言ってると両方消滅させてやんぞ!
よーしいい子だ。教えてやる。
てめーらが自分を優先するとな、つまり、虫ケラみてーな命を数十年永らえさせれば、傷ついた地球の現状は完全に維持される。
ジアースの災害で死んだ奴は死に、崩れた建物は崩れる。
ああ? モジの心臓? そりゃ現状維持だからな。そのままあいつの体の中だ。
……いい質問だ。
地球は一度再生される。それから、予定調和に崩れていくんだよ。
どうやって?
てめーらの目で確かめればいいだろ。すんげー辛いらしいけどな!
てめーらが消えたら、地球は綺麗にしてやるよ。
てめーらはそれを確かめられないけどな。約束してやるよ。オレ様が冗談を言う顔に見えるか?
この地球の傷と、
てめーらの魂の傷、
どちらか一方だけをリセットしてやる。
選べよ、ほら。
そして、皆はそれぞれ、自分の意見を言い合った。
ジアースのせいで死んだ人たちを見殺しにしてまで、ぼくらの命は永らえるべきなのか。
この信用のおけない取引でましなのは、どちらか。
こんな経験をして、ぼくらは日常に回帰できるのか?
ぼくらの選択は――
ダイチは静かに泣いていた。あの時、皆泣いていたけれど、彼は一番静かに泣いていた。
意見を言う順番が来たときになって、彼はただ一言、『もう一度あいつらに会いたい』と言った。
ダイチの後で問われたとき、ナカマは色々なことを考えた。母のことを真っ先に、張さんやナベさん、同級生たち。ダイチ。
最後にやっと、これからの人生のことを。
こんなに大きなゆがみを抱えて生きていけるだろうか。自分の世界のゆがみ以上のものを、人のゆがみ、世界そのもののゆがみを、受け止められるだろうか。
「私は、生きたい」
たくさんの幸せ、たくさんの不幸、私の責任、地球の責任、気づいたこと、まだ気づいていないこと、生きること、死ぬこと、死んでも生き続けること立つこと、殴ること、抱きしめること――
「受け止めるくらい、強くなる」
なのに、まだまだだ。
まだこんなに泣いてしまうほど、弱い。
目のふちを腫れさせながら、ナカマは言った。抱きしめて『すまない』を繰り返すダイチに、ではなく、自分に言い聞かせるように。
「不安になるの。寝る前に目を瞑ると、罪深さに泣いてしまう。そのたびにお母さんが起きてきて私を撫でるの。すごく辛い。私、とても弱いよ。……でも!」
ナカマは叫んだ。大声で叫んだ。
「覚えていたかった! 覚えていたかったの! あの時確かに死んだ自分を、覚えていたかった! ダイ――ダイチ君、を、覚えて、いたかった!」
万感を込めて続けた言葉は、しゃくりあげて聞き取りづらいものだった、ダイチが息が苦しくなるくらいに抱きしめるから、嗚咽がまた、ひどくなる。
「慰め合いたいんじゃない。私はただ生きたいだけ。『ダイチ君を覚えていて良かった』『ダイチ君を好きになれて良かった『私に生まれて良かった』って思いながら、死んだ私の続きを生きたいだけ」
しばらくの間、ナカマはダイチに寄りかかっていた。心臓の音が重なると安心するのだということを知り、耳をそこに押し付けた。
「ひどいことを言ってすまなかった。至らないな、本当に」
「……私も、みっともないところ、見せちゃった」
いいや、と呟いた後、ダイチの肺が膨らんだのを感じた。
「自分には、ナカマが無理をしているように見えたんだ。まだそういう段階じゃないのかもしれないと思った。ナカマのことだ、言い出したら後には引けないとかなんとか、変な義務感で耐えていそうでな」
「そっそんなわけ……」
「それはもう分かった。ただ、自分は嫌だったんだ。ナカマが無理をするのは。……それでも、止められない時がある。男だから」
抱きしめているから、そのことは良く分かった。ダイチとナカマは違う個人だ。
「ナカマはそれを知った上で『好きなことしていい』と言ったんだと思うと、情けなくてな」
みっともない勘違いだ。
言って、ダイチはいつもの顔で笑った。いや、ナカマからは見えないのだけれど、きっとそうだと思う。
「自分も、よく夢を見る」
今度は多分、目を伏せただろう。若干喉に詰まった声で、やっぱり自分に言い聞かせるような話し方で吐き出す。
「ドラムの下敷きになった人たちの悲鳴で目が覚めるんだ。フタバたちは心配してくれるが……言えないだろう」
「そう……だね」
「でもな、『にーちゃん大丈夫?』ってあいつらに言われたら、今度は幸せで泣きそうになるんだ。おかしいだろ?」
ナカマは勢いよく首を横に振った。
今度は確かに笑顔を確認した。
「それで、今みたいにナカマの傍に居るとだな……」
肩が跳ねた。どきりとしたのがばれていないことを祈る。
「あー……」
「……何?」
「普通に、な。なった気がするんだ」
夜はしんとしていた。部屋にはダイチの穏やかな声だけがあって、ナカマはそれに耳を澄ませた。
「自分は、ナカマのことを本当に自然に好きになれたから。この人は何をしたら喜んでくれるだろうとか、今は何を考えているだろうとか、ポニーテールが可愛いとか、……意外と胸があるよなとか」
「え」
「とにかくナカマとセックスしたい、とか」
「そっ……!」
「よく考える」
「よく!?」
もう一度ダイチが(無邪気に)笑ってくれることを、ナカマは期待した。
けれどその望みは破れた。どうやら彼は真剣に、言ってくれたらしい。
「だから今、とても嬉しい」
「…………」
さっきから乳房がダイチの腕に触れているのが気にかかっていた。泣き止んで、辺りの状況を冷静に確認すると、要するに全裸で、要するに『最中』なわけだ。
油断していた、という表現は正確じゃない。けれど、言うなればそれしかない。
「……ん、また……ぁ」
上手なキスなんて、ナカマは知らない。ただ、ダイチのこれが上手い下手のカテゴリに分類されるようなものではないと分かる。
力強い。決して強引ではなく、むしろ優しい。
「は……んんっ……」
――耳、気持ちいいよ。ダイチ君におねだりしてみたら?
……アンコ。何でいつも大事な場面で頭を過ぎるのだ。
「あ……」
残念ながら(と、一瞬思ったことをナカマはとても恥じた)、ダイチはそういった部分を愛撫はしなかった。代わりにただ、触れる。いたわるという表現がぴったりな方法で、ナカマの髪、腕、胸、腹、背中、輪郭を確かめるように、そしてきっと楽しみながら。
熱い手が触れた場所は汗ばむ。もとより高まっていた熱が、快感を積層しながら汗になる。染みのない肌がじんと喜び、それは一ヶ所に集まる。
唇から始まった湿度の高い確認作業は、そこを迂回しながら高まっていった。臍の横をかすめたとき、ナカマは猫みたいな声を上げた。びっくりしつつも嬉しそうなダイチの顔を見て、我慢できなくなった。
「……ね、……ダイチ君……」
ダイチの首筋、胸の筋肉。鎖骨。舌を這わせる。本能的にゆっくり。
「ちょっと、塩辛いね……私も、かな……」
荒い息の音が一瞬高まり、それが返事だった。
もしかしたらこれがきっかけになったのかもしれない。躊躇って、焦れていた指先はやっとそこにたどり着く。
「あっ」
「濡れてるな」
余裕がないのは二人とも。だから、いつもにまして無口になったダイチが時折漏らす正直な感想が、ナカマをひどく恥ずかしがらせることについて、彼を責めることはできない。所在無い指をシーツに引っ掛け、羞恥に耐えるナカマの姿は、ダイチの意図したところではないのだ。
声どころか息までも喉で押し殺して、体内に侵入してくる指の、異物感に耐えた。一本が限界であると知ったとき、ナカマは申し訳ない気持ちになった。
「痛いか?」
「平気……」
ぐ、と指が折れる。壁を押し広げるように慎重に移動する。とてつもなく優しい動きだったけれど、ナカマのそこはものを入れたことがない。「ん」、「う」、と、短い、くぐもった音が口から出てしまう。
「入るのかな……」
「私は、大丈夫……多分……」
官能を帯び始めた声は、どうしてこんなにため息交じりなのだろう。
「……ナカマ」
ずるりと、あっけなく指がどいた。
「失礼」
「え?」
代わりに、息が。
「え、ええ!?」
直後に、ぬるぬるしたものが。
「ダ、ダイ、ダイチく、あ、だ、汚いから……!」
顔があんなところにある。
聞いたことはあるけれど。
男の人って。
男の人って。
「や……ん、んん……っうぅ」
入り口を丁寧に。唇で挟まれ、とぷんと蜜が溢れる。不思議な感覚だった。一番深いと思うまだ奥にまで、快感が波になって届き、その返事がこらえ切れない喘ぎと、断続的に溢れる蜜。
べとべとになるよ?
言えなかった。気持ちよくて。必死なダイチのことを、初めて可愛いかもしれないと思った。
けれどそんなわずかの余裕も、核心に触れていなかったからのものだ。
「――!」
絶対に秘密だけれど――ナカマはその突起がものすごい快感を与えてくれることを知っている。少し弄るだけで全身をかけめぐる快感。背筋の痙攣まで気持ちいいのだ。
そんなところまで、見つけられるとは思わなかった。
「んっ、だめっ……! そこ、は、ぁ」
止める前に訪れた。浅い、ごく短い絶頂。
掴まれた腿がふるふる揺れた。呼吸を整えようと息を繰り返し、ダイチと目があって息が止める。
「できるだけ、痛くなくしたいんだが」
こくこく頷く。割って入った指が一本増えていても、声を漏らさず。
実際それは最初ほど痛くなかった。圧迫感も減衰していて、あるとすれば視覚の光景があまりに非現実的すぎることか。
薬指まで飲み込んだとき、ナカマは安堵した。下腹部の鈍痛は大きくなったけれど、これならばダイチを受け止められるだろうと思ったのだ。
「そろそろいいか?」
「うん……」
しばしの猶予(装着時間の長さは、ダイチの経験をもって推し量るべきである)のあと。
ナカマは思い知った。甘かったと。
受け止められる? 本当に、これを?
見ないわけにはいかない。見ざるを得ない。
ナカマが下ネタに強い中学生であったなら、真っ先にカンジのあの下品な言葉を思い出したところだろう。
「ナカマ?」
「う、ううん!」
思わず目を逸らしてしまいそうなグロテスクさにも関わらず、ナカマは目を逸らせなかった。
いきなり押し寄せた恐怖感。これを決して悟らせてはならない。今のダイチなら行為を続けてくれるかもしれなかったけれど、『怯えたナカマ』を見せて、彼に罪悪感を感じさせることはなんとしても避けたかった。
大丈夫。大丈夫――少しピントのずらしてナカマは考えた――お母さんなんて、私を通らせたんだ。3キロの質量まで、平気だ。
「!」
覆いかぶさる瞬間もゆっくりで、ナカマもゆっくり瞬きをする。上にダイチが居る圧迫感が、なぜか少し気持ちいい。
想像していた以上に足を広げさせられたときも、ナカマは顔を背けるだけで口を噤んだ。何か言っても全て「恥ずかしい」に変換されてしまいそうで。
「…………」
入り口にあてがわれたそれが、ゆっくり侵入してくる。じりじりと、やっぱりきつい。
力を抜かなくちゃ。
力を抜かなくちゃ。
「大丈夫か?」
前進が止まった。
「平気。……これで、入ったよね?」
「いや、まだだ。悪い」
謝ることなんてない。そう、言おうとした。
「ひ……っ!」
「く」
まだ、というか。ほとんど、入っていなかったんじゃないか。
低い、長い息を繰り返して、ナカマはダイチを見上げた。痛みで涙が滲むのは我慢しようもなく、微笑むことでそれをごまかした。
「お願い、ちょっとだけ、このまま」
「……分かった」
ダイチも苦しそうに見える。ナカマの少ない知識の中にも、「男の人は我慢するのが大変らしい」ことは、かろうじて存在した。それなのに、しようと決め手からここまで、ずっと我慢してくれている。いや、付き合い始めてから、ここまで。
ダイチの顎から落ちた汗がナカマの唇にぽつんと落ちた。それ以前にも汗はお互いの体に染み込んでいたけれど、一滴の熱いそれは、また違った。ダイチという人間の長所すべて、詰め込んだような辛さがある。
ナカマは泣いた。痛みからではなく、こみ上げる喜びから。
「ダイチ君、動いて」
もう、交じってしまおう。
お互いの体液も、匂いも、体も。そのときに溶け始めたような気がした。
「ふ……っん、んんっ」
最初はゆっくり、ナカマの様子を見るように。そして段々、追い込むように力強く。
押されている、という気持ちだった。移動が繰り返されるたび揺れる体は自分のものではないようで、下腹部は、別の感覚が働く生物。つまり、二人で一つの。
ダイチから見れば、ナカマはどんなに小さく映るだろう。ナカマがダイチの胸板に安心するのとはきっと違う。遠慮するなと言うことは今のナカマにはできない。単純に、もっともっと、慣れなければいけないと。
「っ、ふっ、あ、」
感じていたのは最初、ダイチの存在だけだった、中に居る、受け入れているという感覚。
そこに混じってゆく、感覚。近づいてくるようで遠ざかる。もどかしい快感は、ナカマの純真な幸福感をだんだん押し避け、せりあがってくる。
「あ、あ、あ、あ、んぅ」
規則正しいリズムで、喉が勝手に音を上げた。間にときおり、ダイチが息を押しつぶす音が混じった。絡み合った粘膜は別個のもので、だからお互いを刺激できる。空恐ろしくなるほどの強い予感が動きを促す。
衝撃的な痛みではなくなっても、鈍痛と呼ぶには重すぎるこれが、ほんの少しありがたい。不穏な快感とせめぎ合ってゆずらないこの痛覚がなければ、ナカマはどんなに恥ずかしい姿を晒してしまうだろう。
高まっていく波が最高潮に達しないうちに、結合は終わりを迎えようとしていた。早まり、激しく、腰がぶつかる。途切れ途切れに「あ」の音を迸らせ、ナカマは待った。薄目を開く。涙のベール越し、歯を食いしばる顔を見る。
目が合った。今度は逸らさなかった。おそらくはほんの一瞬、見詰め合う。名前を呼ばれる。
「ナカマ」
そのときこみ上げた気持ちを、ナカマは一生忘れないと思う。
後悔も、罪悪感も。
生れ落ちた罪。生き残る罰。この重い魂。
全て背負えるほどの幸福。
こんなに切ない気持ちが、ナカマの選択を肯定してくれる。
きっと、これからも。ことあるごとに。
「ダイチ、君」
腕を伸ばして、ナカマはダイチの頭を胸に抱きしめた。
「……く!」
狭い膣の中で、ダイチは膨らんだ。膨らんで弾けた。爆発のひと時をナカマは、目を閉じて味わった。胸元の呻き声。
包み込むような気持ちで、ダイチの背中を撫でた。捉えかけた快感を完璧に捕まえることはできなかったけれど、多幸感は息苦しいほどで、ずっとこのまま抱きしめていたいと思う。
ナカマの横にダイチが倒れこんで来た。避けてくれたにも関わらず彼の体重は重く、受け止めるの少し苦しかった。
「すまん、悪いが……」
「気にしないで。苦しくなんて」
「もう少し、このままでいさせてくれ」
呼吸を整えながら、無表情に、でも照れくさそうにダイチが言った。
「うん」
――生きてて良かった。
本当に、良かった。
駅まで送りたかったが、危ないからと押し止められた。
こんなに深夜の帰宅、ダイチはきっと初めてだろう。
振り返って手を挙げ、それからずんずん遠ざかる背中を見送りながら、ナカマは少し心配になった
夏場のこと、彼の服は清潔に乾いている。あの頭だからシャンプーの匂いが残ることもない。と、思う。
「…………」
次にフタバ達と顔を合わせるときのことを想像し、ナカマは眉をハの字にした。困った。
『ダイチにーちゃんって顔に出やすいですよね』と言っていたのはフタバだ。同じくらいポーカーフェイスが苦手なナカマは、そのとき何も言えなかった。
明日もきっと新聞配達の仕事があるだろう。本当に尊敬する。ナカマもたくさんアルバイトをしているが、母と自分のためというのとはまた別に、ダイチが頑張っているから励まされることも多々あった。
「マ」
のびをして、アパートの階段を登ろうと振り返ったときだ。
「コ、ちゃん」
ダイチの去った反対側に、満面の笑みの美しい女性が立っていた。語尾にハートがつくほど甘ったるくナカマの名前を呼び、首をかしげて微笑む。
「んふふー」
「お、お母さ……!」
「やるわねぇ。さすが私の自慢の娘!」
「そ……っ!」
幸せの余韻は消えた。香水の匂いの風に押し流されて。
「まず聞くわ。ちゃんと避妊はした?」
「も、もう! お母さん!」
「大事なことよ。あんたならそういうのちゃんと分かってると思うけど」
「分かってる! 分かってるからせめて部屋で聞いて!」
多分、この大声の会話が悪かった。
翌日ナカマは何回もおめでとうを言われることになる。引きつった笑いでなんとか耐え、セクハラすれすれの冗談も何とかかわし、
「よぉマコちゃん。祝い持ってきたぞ」
けれどナベさんにだけは、思わず怒った。
「おしゃぶりだ。息子だか娘だか知らねーが、顔がマコちゃんに似るように祈ってるよ、俺は」
……さらに数日後。
「それにしてもさ、ナカマに似たら絶対美人になるよね!」
「…………」
けれど、アンコには怒れなかった。
「どっちに似ても、真っ直ぐ育つだろうけど」
うん。
何にしろ皆、全員気が早い。
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